〔日本へのビザ発券を決意する〕
1940年7月27日の朝、窓を見下ろすと建物の周りをビッシリ黒い人の群れで埋め尽くされている、「どうして」と夫に問う、ユダヤ人はナチス・ドイツ軍による逮捕、虐殺を逃れ唯一の逃れる道としてリトアニア・カウナスにたどり着き、ソ連、日本を経由して第3国へ移住するために日本通過ビザを求めて来たのだ。千畝は5人の代表に会いカウナスへの決死行の事情を聞く、この時の奥さんの歌がある、
『ビザ交付の決断に迷い眠れざる夫のベッドの軋むを聞けり』 と。
杉原千畝は再三外務省へ、又、直接上司のラトビア公使、最後には松岡外務大臣に要望する。当時の日本は陸軍大臣東條英機で、日独伊三国同盟への直線コースが引かれ、ドイツに敵対する行為は認められず「否」であった。
『6千人の命のビザ』では「幸子、私は外務省に背いて、領事の権限でビザを出すことにする。いいだろう?」 医者になれという父親の意に反し家出、アルバイトで食いつないできた信念の人、翌日、ソ連領事館を訪ねソ連領内通過のビザを取る、夫は若い頃ハルピンでロシア正教会の洗礼を受けていた、「神は愛であり、愛は神である」異邦人であろうと人間と人間の愛は世界の幸せにつながるという。夫はいう《私を頼ってくる人々を見捨てるわけにはいかない、でなければ私は神に背く》と
〔6000人の命を救う〕
ビザ発券を決意してからは寝る間を惜しんで発券する。今のパソコンと違いタイプライターで署名は手書きで時間がかかる。職員も協力する。ソ連からは退去命令が下る、日本からも領事館閉鎖の催促ある中で、7月26日ビザ発券を開始8月末に発券終了8月30日カナウスのメトロポリスホテルに滞在した一週間もビザにかわる渡航証明書を発給し続ける。カナウスを離れる時、彼等は叫んだ『私たちはあなたを決して忘れれません、もう一度あなたにお会いします』と、この間に発券した枚数は2139枚、1枚のビザで同行できた家族を含めると6,000人のユダヤ人を救う結果となった。現在救われた人の子孫は世界に4万人いるという。 |
|

領事館前に押し寄せる避難民

領事館の職員と家族

当時のエストニア風景

杉原千畝発行のビザサンプル
|